ぶらり歩き

16. 三内丸山、羽州街道、立佞武多見物                 平成21年8月8日

 
 8月の青森県は、青森、弘前、五所川原、八戸など方々でねぶたをはじめとする夏祭りが開催され、多くの観光客を引き寄せる。それも7月下旬から8月上旬に集中している。今回は五所川原の立佞武多(たちねぶた)見物を目的に青森、五所川原を訪ねた。

 東京に政治・経済の機能が集中している現代では、本州の最北に位置する青森は観光資源を活用して郷土の文化、伝統を発信しようと努めている。まず、今から5500年前〜4000年前の縄文時代前・中期に栄えた国内最大規模の三内丸山遺跡を訪ねる。入場すると、予約の必要なくボランティアの方がハンドマイクを片手に、国の特別史跡に指定されている三内丸山遺跡を案内してくれる。遺跡の中でも、縄文人の智恵で防腐処理が施されていたため、腐らずに残っていた直径1mのクリの柱(写真1)6本で支えられた構造物は、その形状は定かではないが想像力を働かせて大型掘立柱建物(写真2)として再現されている。6本の柱で支えられた構造物が何であったかは考古学愛好家には興味の尽きないテーマであろうが、この大型掘立柱建物の建築に用いた直径1mのクリの木をシベリアから入手したというのも夢のあるエピソードである。また、柱の穴の間隔、幅、深さはそれぞれ4.2m、2m、2mですべて統一されており、当時の土木技術の高さを表している。しかも、4.2mは縄文尺ではないかと言われている35cmの倍数となっていて、想定再現された大型竪穴住居(写真3)の柱の間隔も同じく35cmの倍数となっているという。ボランティアの方によると、人の肘の骨の長さから35cmというモジュールができたという説もあるそうで、西洋のフィート、東洋の尺が足の長さに由来することとあわせて考えると、なかなか納得力がある説である。 
        

写真1 大型掘立柱建物 クリの柱 写真2 大型掘立柱建物 写真3 大型竪穴住居



 三内丸山を後にして、立佞武多が開催されている五所川原に向かうが、寄り道をして油川(あぶらかわ)宿に立ち寄る。江戸時代の油川宿は、羽州街道の終点、そして三厩(みんまや)を通り函館まで続く松前街道の起点として大いに賑わったという。田酒で有名な西田酒造(写真4)の前に、羽州街道と松前街道の合流之地碑(写真5)が建っている。羽州街道は奥州街道の福島県の桑折(こおり)宿から分かれて、出羽国(山形県、秋田県)を経由して弘前を通り青森市の油川宿に至る脇街道である。因みに、弘前藩はこの羽州街道を利用して参勤交代の行列を進めたという。油川宿も、明治4年(1871年)に青森と新城間に直通道路が開通すると、通行する人馬の数は急激に少なくなってしまったという。現在も民主党が政権を担当したことにより、社会が大きく変わる兆しが感じられるが、明治維新も平和革命により、政策のひとつとして殖産興業を掲げて道路整備、鉄道の敷設などの交通網の近代化を図ったため、結果として油川宿は割を食ってしまったようである。合流之地の石碑が建つ西田酒造は青森市唯一の酒造元で、小生が愛飲する田酒を作っている。元々は元禄年間(1688年〜1703年)に近江の商人が移り住んだのが始まりといわれ、明治時代になってから酒造業を開業した。田酒は水田の酒として昭和49年(1974年)に販売が開始された新しい地酒である。その後、日本酒のコンテストで日本一に輝いたことから、全国にその名を轟かせる地酒となり、現在では入手するのも難しい人気の地酒であるが、意外にも地元よりも東京の方が入手しやすいという話もある。
 寄り道ついでに、善知鳥(うとう)神社に寄る。創建は不詳といわれるが、允恭(いんぎょう)天皇(412年〜453年)の時代に、善知鳥中納言安方(うとうちゅうなごんやすかた)が北国の夷人山海の悪鬼を誅罰平定し、この地を治めた時に、霊験あらたかな神々を祭ったのが始まりと伝えられている。坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷討伐に遠征して来るのが8世紀後半〜9世紀初頭の頃であるから、それより400年以上も古い時代から鎮座する由緒ある神社といえる。善知鳥神社前には、平成3年に建立された奥州街道終点記念の碑(写真6)が建っている。更に、西に足を伸ばして青森県の天然記念物に指定されている樹齢400年を越す三誉(みよ)の松(写真6)のある合浦(がっぽ)公園に立ち寄る。奥州街道はこの松の脇を通っていたと言う。
 

写真4 西田酒造 写真5 羽州街道と松前街道 合流之地碑 写真6 参誉の松  



 ようやく、五所川原へ向かってバイパスを進むが、戸門(とかど)からバイパスを離れて羽州街道を行く。バイパスとの分岐地点に平成6年に建立された羽州街道と刻まれた石碑(写真7)が建っている。ここから羽州街道は奥羽本線と並行して走るが、この道を百数十年前に伊能忠敬吉田松陰が歩いたことを思うと、道というものが今日まで脈々として人を運び続けていることを自然と感じることができる。
 五所川原では夕食時に田酒を堪能して腹ごしらえして、15台ほどの立佞武多(写真8、9)が集結する祭り会場に向かう。今年製作されたねぶたは夢幻破邪(むげんはじゃ)と命名され、邪心わ諫める願いを込めて明るくやさしい未来を祈願している。青森県のねぶたは400年以上の歴史を持ち、その起源には諸説あるようであるが、禊祓(みそきはらえ、穢れを除く祓い清めの行事)に由来するという説が有力という。五所川原の立佞武多は明治40年ごろに登場し、その山車は高さ約20m、重さ約十数トンと巨大なものであった。しかし、その後市街に電線が張り巡らされたため小型化してしまったが、平成10年に地元ボランティアの努力で元の巨大なものが復活した。祭りのフィナーレを飾るために次々と集結する立佞武多は、いずれも武者を模った勇壮なもので、座ってそれらを見上げる我々観客を圧倒するスケールである。街路灯があるとはいえ、暗い背景に浮かぶ内側から照らし出された立体のねぶたはその色彩も美しく、見る者の心から邪気を抜き、幻想の世界に引きずり込む。時の過ぎるのも忘れて、観客も山車を引く地元の人も一体となって立佞武多が織り成す悠久の時空間に酔いしれてしまう。
 すべての山車が集結した交差点では、五所川原市金木出身の吉幾三が立佞武多の歌を歌い上げて祭りの打ち上げとなった。

写真7 羽州街道石碑 写真8 立佞武多 写真9 立佞武多




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